今野雅方 論文ゼミGlobe 小論文をひかえた大学受験生、大学生、あるいは再度勉強をしたい社会人のための小論文教室

今野雅方 Globe 論文 教育

入試科目の一つとしての論文の意義とその可能性

綻びの目立つ論文試験に認識すべきもの


大学入試に論文(いわゆる小論文)が導入されてからすでに十数年になるが、その評価は大学の内部においても未だ定まっていないと見られる。これは入試の多様化と相俟って現在では国公立大学の三分の二、私立大学の半数ほどにまで採用が拡大しただけでなく、高校入試から大学院入試に至るまで導入され、数としても幅としてもかなりの普及を見たわけであるが、実態にかなり綻びが目立ち、廃止する大学や廃止を視野に入れた大学も出ているからである。


だが、一九九〇年に東大が後期試験で始めた論文試験の受験志望者を中心に指導してきたこれまでの経験に照らすなら、揺れ動く評価も綻びもその運用に関わるだけで、論文試験そのものと論文の勉学には無縁であると考えざるを得ない。指導に携わっていると一般に学力と見られているものでは測れない知的活動が浮かび上がってくるからである。学ぶということが全く異なった意味を帯び、そのため勉強も学力も別種のものになると言った方が良いかもしれない。論文を書いているうちに――より実態に即して表現するなら、先人の文章を課題文として種々の事柄をみずから考え、論文の形式に即して文章を書いているうちに――受講者の中に感じ考える主体としての自分を取り戻し、改めて現実に対して目が開かれ、自分の無知を悟ることから多種多様な現実の中に以後の糧となる意味を見いだしてゆく生徒や学生が出てくるからである。このような生徒や学生にとって、入試で求められる論文は最初の一歩、つまり長年の慣行のために縦割りの中で固着してしまった個別学科・学問の内容を、再び現実に即して考え直すことで綜合する最初の一歩になっていると言えるだろう。


当初論文が大学入試に導入されたときに意図されていたこともまた、おそらくはこのような知的活動を生み出すことだったのではないかと思われる。当時は過熱した受験のために異常なほどの緊張と無味乾燥な勉強を強い、知育偏重の弊害が社会問題ともなっていた時期だからである。以後の広範な採用と綻びとはすでに指摘したとおりであるが、論文を求める側と受験する生徒・学生を送り込む側とに実質的に何の連携もなく、学校教員による指導もほとんどないままに行われてきたとあれば、綻び自体は当然であろう。だが、綻びの根本原因は課題文を通して現実の事柄をみずから考え文章を書くという活動のもつ奥深さが充分には受け止められてこなかったところにあると思われる。


その受け止め方はそのままに現在広く教育の世界に見られる方向喪失感と重なり、年々歳々生徒・学生の無気力を拡大再生産しているであろう。学ぶ意欲の低下はおそらく先進国に共通する問題であり、その在り方自体に内在する複合的で根深い要因を見透している者はいないであろうが、戦後半世紀ほどで欠陥を露呈した知識の積み重ね方が質的に変わらなければならないということは明らかである。そうであれば、学者や研究者が著す論文とは質的に異なるこの論文の意味と役割とは、やはり、広く知られて良い。学力低下の掛声に押されて徒に学科の内容を増やしたところで、あまりにも不毛な努力を強いた時代に戻れるわけではないからである。



入試科目の一つとしての論文の意義とその可能性
綻びの目立つ論文試験に認識すべきもの
芽を詰まれた心
言葉になったかぎりでの自分から始まる論文の勉学
一字一句の検討から始まる実際の勉強
論文の勉学に含まれる一連の過程と意味
人間が考えなくても済むシステムから脱却する可能性を与えるその訓練
高校・大学教育に生かすべきその可能性

Globeの教育政策